冨士塚は下有知の冨士神社の拝殿の後ろにあります

西脇 弘さんと高橋正次さんが説明をしました

説明の後に冨士塚に登りお参りをしました

下有知の冨士塚は同じ字を使うと恐れ多いとのことで富士山と違って”冨”の文字を使っています

左鎌が奉納されています

下有知冨士塚の説明

1. 鎌倉時代(1185~1333)の1319年刀祖である元重が居ました。

古文書によると元重は1311年頃に九州から関に移住して来たと考えられます。

2. 元重の子孫の奈良太郎兼常は1381年に富士浅間大権現に参詣して名剣が出来るように祈願し、富士の土砂を持ち帰り故郷の下有知に冨士塚を作って富士浅間大権現を勧請しました。

本来は富士塚と書きますが、富士そのものを使っては恐れ多いので富士を冨士と変えました。

そして、この地が冨士塚という地名になりました。

※ 勧請(かんじょう):本祀(ほんし)の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること

3.  その後兼常家代々が下有知冨士塚に住みこの冨士塚神社の支配を司って来ました。

4. 初代の兼常から五代目か六代目まで189年続いた時、子孫の兼常は尾張藩福島正則の抱え鍛冶となり1573年跡継ぎの刀匠の兼(かね)白(きよ)に任せて下有知を去りました。

5. その後太平の世となり、跡継ぎの兼(かね)白(きよ)も下有知を去りますが、関鍛冶と深い縁のあった池村氏に冨士塚神社の一切の事を依託しました。

6. 室町時代(1392~1491年)中期に下有知重竹地区に規模の大きい兼定屋敷がありました、刀匠の和泉守兼定はここで刀を作っていましたが天分3年(1534)の大洪水に土砂の下敷きになり現在の関市内に移住しました。

昭和56年に重竹遺跡の発掘調査により鍛冶屋敷跡が確認され、屋敷の規模は大きく発掘された遺品は地下約2メートルより出土しました。

下有知重竹地区の兼定屋敷跡は以前は地名として存在していましたが、土地区画整理により今は大切な地名が無くなってしまいました。

戦国時代の大永時代(1521~1528)に和泉守兼定の二代目の兼定は刀剣史上最初に受領銘の和泉守を拝領して、自分の刀にその銘を初めて刻んだ刀匠です。

表には濃州関住兼定作 裏には裏奉 山王二十一社 と銘が入っています。

下有知には昔から山王という地区が存在し、山王地区には山王神社が有りますが、現在は向山神社となっています。

山王神社は二十一の社(やしろ)を合祀した神社です。

※ これらの事は下有知冨士塚の池村久雄氏所蔵の 池村家由緒書 寛文二年(1662年)記述 より明らかになりました。

※ 関の刀鍛冶の発祥の地は下有知重竹地区或いは下有知冨士塚である事が判りました。

※ 冨士塚を調べるにあたり地元の長老の山藤健治さんにお話をお聞きし、篠田幸次さんが書かれました資料を井戸誠嗣さんにいただきました、皆さま御協力を有難うございました。

参考記述

※ 江戸時代に富士山信仰が爆発的に広がりましたが、旅が困難な時代のために富士講を作り代表者が富士参拝をして土を持ち帰り身近な場所に模倣富士山を築造して参拝出来るように築いたのが富士塚でした。

しかし、下有知の冨士塚は名剣が出来るように祈願して作られた冨士塚です。

※ またネットで調べると、富士塚の第1号は安永八年(1779)に東京の高田の地に作られたものだと書いてありますが、下有知の冨士塚はそれよりも400年ほども古く今から633年前に作られていました。

富士塚にお住まいのご長老の山藤健治さんからお聞きした古い歌があります

※きつねの太郎ざ(雄)がさんしょば山に住んでいて、善光寺山に住んでいるきつねのおたけぼし(雌)に恋をした・・・という歌です。

作詞は野口雨情・作曲は中山晋平で下有知に来て作られたと言われています。

下有知の字名に西仙房(さいせんぼう)が有りますが、現在の大人の人達は子供の頃に西仙房を“さんしょば”と呼んでいたそうです。

どんな曲で歌われたのか聞いてみたいですね。

2014年5月25日
下有知役員ふれあいまちづくり推進委員会
委員長 高橋正次(下有知区長会長)