昨年2014年5月22日に続いて、今年も下有知小学校3年生69名が冨士塚の勉強をしました

冨士塚の説明は区長会長の高橋正次さん 冨士塚自治会長老の山藤健治さん 土木水利委員の山藤耕一郎さんがお話をしました。

3年生のみなさんには下記の1~8の事を説明して勉強してもらいました。

1. 鎌倉時代(1185~1333)の1319年刀祖である元重が居ました。古文書によると元重は1311年頃に九州から関に移住して来たと考えられます。

2. 元重の子孫の奈良太郎兼常は1381年に富士浅間大権現に参詣して名剣が出来るように祈願し、富士の土砂を持ち帰り故郷の下有知に冨士塚を作って富士浅間大権現を勧請しました。

本来は富士塚と書きますが、富士そのものを使っては恐れ多いので富士を冨士と変えました。

そして、この地が冨士塚という地名になりました。

※ 勧請(かんじょう):本祀(ほんし)の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること

3.  その後兼常家代々が下有知冨士塚に住みこの冨士塚神社の支配を司って来ました。

4. 室町時代(1392~1491年)中期に下有知重竹地区に規模の大きい兼定屋敷がありました、刀匠の和泉守兼定はここで刀を作っていましたが天分3年(1534)の大洪水に土砂の下敷きになり現在の関市内に移住しました。

昭和56年に重竹遺跡の発掘調査により鍛冶屋敷跡が確認され、屋敷の規模は大きく発掘された遺品は地下約2メートルより出土しました。

下有知重竹地区の兼定屋敷跡は以前は地名として存在していましたが、土地区画整理により今は大切な地名が無くなってしまいました。

※ これらの事は下有知冨士塚の池村久雄氏所蔵の 池村家由緒書 寛文二年(1662年)記述 より明らかになりました。

※ 関の刀鍛冶の発祥の地は下有知重竹地区或いは下有知冨士塚である事が判りました。

小学校から45分歩いて冨士神社に来てくれました  まづ最初に裏から冨士塚の大きさを見ました

冨士塚がどうした経緯で出来たか、そして大切に守らないといけない事を聞きました

5.  赤ちゃんの夜鳴き虫が治ると信じられて冨士神社には数十年前までは何千という左鎌が柱と壁に祭られていました。

6.  私達のまち下有知の有知は知恵のあること 知恵のある者という意味です。 これは中国の逸話集に有知無知三十里という逸話があり、知恵のある者とない者との差がはなはだしいことのたとえです。 魏の国の楊修(ようしゅう)と曹操(そうそう)が曹娥(そうが)の碑のそばを通ったとき、碑に書いてある文の意味を 楊修はすぐに理解したが曹操は30里行った後にやっとわかったという故事から由来していると考えられます。

7.下有知にある山王山には1812年(文化9年)に設置された88の石仏が鎮座されています、これも大切に守っていきたい下有知の文化です。

8.  下有知は手作業の難工事を乗りこえ10年の歳月を経て1675年に完成した曽代用水など貴重な文化財の残る自然豊かなまちです。

参考記述
※ 江戸時代に富士山信仰が爆発的に広がりましたが、旅が困難な時代のために富士講を作り代表者が富士参拝をして土を持ち帰り身近な場所に模倣富士山を築造して参拝出来るように築いたのが富士塚でした。

しかし、下有知の冨士塚は名剣が出来るように祈願して作られた冨士塚です。

またネットで調べると、富士塚の第1号は安永八年(1779)に東京の高田の地に作られたものだと書いてありますが、下有知の冨士塚はそれよりも400年ほども前に作られていました。

2015年5月26日 下有知ふれあいのまちづくり推進委員会
委員長 高橋正次(下有知区長会長)