下有知(しもうち)に伝わる昔話に 『足あとてんじょう』 があります
ずうっと昔、下有知の竜泰寺が始めて建てられた時のお話です。
その敷地に、びっくりするような岩がどっかりすわっていました。
この大きな岩がじゃまになって、このままでは計画どおりのお寺を建てることができません。
大勢の人が一生懸命おしてみたり、太い棒でこでてみたり、網をかけて引っぱってみたりしましたが、岩はビクとも動きません。
「 困った。何ともならん 」
「 人間の力じゃ動かんな。どうしたらいいんじゃ 」
と、みんなが困りはててワイワイ、ガヤガヤ言っていると、監寺さん(かんずさん:留守番役のお坊さん)の道了様が
「 どれどれ、ひとつ、わしがやってみるかな 」と、言いながら岩に手をかけました。
「 ウーム! 」顔を真っ赤にして力みました。
すると岩が、ぐぐっと、動いたのです。
「 ややっ、岩が動き出したぞ 」
「 すごいな、こりゃ人間の力じゃねえぞ 」
だんだん岩が大きく動くようになり、そのたびに大勢の人たちが大岩の下に、中ぐらいの石や、小さな石などを入れて岩のあとの穴をうめたので、とうとう岩の全部が土の上に出てきました。
道了様は、
「 えいっ! 」と、大きなかけ声と共に、頭よりも高く岩を持ち上げ、ずしん、ずしんと歩き出しました。
歩くたびに、岩の重さで、足が土の中にめり込みます。
やっとのおもいで岩をどかせた道了様は、みんなのところへもどってきて、足の裏についた土を洗いおとそうとしました。
ところが、いくらこすってもこすっても、土が落ちないのです。
村人たちは、
「 土が落ちないとは、どういうこっちゃ 」
「 そりゃ、あんな重い岩をかついだもんやで、土が足の裏にしみこんだんやねえか 」
「 そうかもしれんな。うん、きっとそうじゃ 」
と、口々に話していると、道了様がやってきて、いくら洗っても落ちない土色の足のまま天井に張るつもりの板の上に立って、大工さんたちの仕事を見ていました。
しばらくして、何気なく足元を見ると、板の上に足の形がべったりと付いているではありませんか。
「 あれ? 」
思わず足の位置を変えてみました。
すると、そこにも足の跡がつくではありませんか。
「 ほい、しまった。大工さん、まことにすまんこっちゃがもういっぺん鉋をかけてくんさらんか 」
ところが、・・・・削っても削っても足の跡はきえません。
しかたがないので大工さんは、足あとがついたまま板を天井へはりました。
ついに、竜泰寺が完成しました。村人たちは完成を祝って集まってきました。
所がどこをさがしても道了様の姿が見当たりません。
「 おい、道了様はどうしんさった? 」
「 どこへ行かしたやろ、おかしいな 」 と、みんなが大騒ぎをしていると、
「 ここじゃ、ここじゃ 」と、上の方から声が聞こえてきました。
びっくりして、みんなが上を見ると、道了様が天上の足あとにぴったりと足をつけてこうもりのように、ぶら下がっていました。
「 これはどうしたことじゃ! 」
「 そこで何をしとんさるか? 」と、村人たちは驚いて道了様に呼びかけました。
道了様はみんなの顔をみてただ、にやにやと笑っているばかりです。
「 ああっ!もしかしたら道了様は天狗かもしれんぞ 」
「 そうじゃ、そうじゃ、そうにちがいない 」 と、大騒ぎです。
やがて道了様は、天狗の姿になって天井から離れ、空に飛び立って行きました。
「 そうか、天狗が道了様の姿をかりてわしらを助けてくれたんや 」
「 そうだ、道了様が岩をどかせて下さったおかげでこんな立派なお寺ができたんじゃ 」
「 いつまでも道了様を忘れないようにおまつりをしよう 」
と、いうことになり、道了様を竜泰寺の守護神、道了権現として本堂にまつることにしました。
そして竜泰寺本堂の天井板には今でも天狗の足の跡が残っています。
どんな足跡なのか興味ありませんか?
「下有知の民話」より要約 著者は判っていません
竜泰寺の由来
竜泰寺は応永十四年(1407)第一祖無極慧徹禅師(むごくえてつぜんし)によって開創され、第二祖月江正文、第三祖開山華叟正蕚禅師(かそうしょうがくぜんし)に受け継がれました。
開山華叟正蕚禅師の法載嗣である絶方祖奝(そちょう)、快庵妙慶、大林正道の三師大澤寺(長野県)、大中寺(栃木県)、茂林寺(群馬県)をそれぞれ創建しました。
その門葉は中世から近世にかけて大きく展開し教線を拡げ、北は山形県から南は大分県まで一都二府十九県にわたり、約700寺がその流れを汲んでいます。
俗に、絶方祖奝、快庵妙慶、大林正道の三師の法系が華叟三派(かそうさんは)といわれる由縁です。
しかし、開創当事は戦乱逃れるため、第一祖無極慧徹禅師(むごくえてつぜんし)と第二祖月江正文の両禅師は竜泰寺と大泉寺(犬山市・現在は臨済宗)とを往来し、命脈を保ったと伝えられています。
開基は九代将軍の足利義尚とされますが、その外護により兵火で焼失した伽藍を華叟正蕚禅師が嘉吉三年(1443)再建、その後も再度兵火に遭い続けたが、貞享四年(1687)二十一世清厳貞淳禅師が山門を、三年後には経蔵を建立するなど徐々に復興しました。
現在の庫裡と本堂は文化六年(1809)三十三世独翁富山禅師と四十世印宗正契禅師(いんじゅうしょうかい)がそれぞれ再建しました。
さらに老朽化した伽藍は昭和五十二年(1977)より平成十三年(2001)までに再建と修復をほぼ完了しました。
平成三十年11月には竜泰寺で晋山式(しんざん しき)が行われます。
※ 晋山式とは、寺院に新たな住職が就任する際の儀式のことです。
2016年1月9日
下有知ふれあいのまちづくり推進委員会
委員長 高橋正次(下有知区長会長)