下有知に伝わる昔話に 『 太郎左狐・たろうざきつね 』 があります
むかし、むかしのずうっとむかし。
関がまだこんなに開けていなかった頃の話や。
サンショボ山 ( 下有知の南の外れで緑ヶ丘中学校裏の西仙坊山、または大洞山とも呼ばれています ) というところに、 『 太郎左 』 という雄の白ギツネが住んどったそうや。
太郎左はまだ一人もんで若いキツネやったんやと。
それから昔あった関所の南側の山で一ツ山には、『 おたけ 』 という雌の白キツネが住んどったそうや。
おたけも一人もんで、うつくしいキツネやったそうや。
太郎左はある日、山を歩いていて、おたけを見かけたんやそうや。
一目見て、太郎左は美しいおたけが好きになって、毎日一ツ山まで会いに行ったそうや。
おたけもたくましい太郎左が好きになり、太郎左の来るのを心待ちにしていたんやと。
二人 ( おっ!二匹やな ) は、時間のたつのも忘れて楽しく語り合っていたそうや。
太郎左は、おたけに会いに行く前にはいつも、
「 おたけさーん、これから行くでちゃんと待っていてくれよ~ 」 と呼びかけては、出かけて行ったんやと。
その声を聞くたんび、村の人んたは、
「 今夜も太郎左がおたけに会いに出かけるんやな~ 」
「 ほんに、仲がようていいことやな~ 」 と、うわさしあってあたたかく見守っていたんやそうや。
ある晩のこと、
「 おお!あれをみんさい 」
「 わあ!きれいなこと 」
なんと一ツ山からサンショボ山にかけて、点々と火がつらなっていたんや。
そうなんや、きつね火がつらなっとったんや。
村の人んたは、
「 キツネの嫁入りじゃ、いよいよ太郎左とおたけが、祝言( 結婚式 )をあげるんやな! 」
「 よかった、よかった! 」
と、祝ってやったそうや。
その晩からは、太郎左の呼ぶ声も聞こえんようになったそうや。
村の人んたは、太郎左とおたけが仲良く連れ立って歩いているのを見かけると、
「 おい、太郎左、いつまでもおたけをかわいがって、仲よう暮らせや! 」 と、声をかけてやっていたそうや。
ある日、村人のひとりが、太郎左とおたけが歩いたあとを通ってみると、二匹が掘ったのか、土がやわらかくなっていたそうや。
「 ちょうど、畑にいいあんばいの土やな 」 と、思い、畑に耕やしたところ作物がたいへん良く出来たそうや。
その話を聞いた村の人んたは、太郎左とおたけが仲良く通ったところを見ると、そのたんびに、そこを畑にしてみたんやと。
するとやっぱりその畑もふしぎなことに、作物がよく出来たそうや。
村の人んたは、太郎左とおたけのおかげで作物もよくとれ、豊かに暮らせたそうや。
それからずうっとたった、きれいな月の晩、村の人んたは太郎左とおたけが、みんなに向かって、
「 わしらを、かわいがってくれてありがとう 」 と、言いながら二匹仲良く天に昇って行くのを見たんやと。
そして、キラキラときれいに光る二つの星になったんやそうや。
村の人んたは、そんな二匹の魂をまつったお堂をたててやったそうや。
そこんとこが、今の神明町三丁目ちかくの狐塚という地名なんやそうや。
それから、またずうっと後の昭和の初めの頃、この話を聞いた 『 雨降りお月さん 』 や 『 城ケ島の雨 』 などを作った野口雨情という人が、
『 太郎左恋しやサンショボ山で、秋の夜長をおたけ欲しや・・・ 』 と、いう唄を残していったそうや。
これが今、唄われている『関音頭』の中の一節なんやと。
この文章は、いっぱい関弁を使って書かれているところが面白いですね。
「下有知の民話」より要約 著者は判っていません
※ 下有知の字名に西仙房(さいせんぼう)が有りますが、現在の大人の人達は子供の頃に西仙房を“さんしょば”と呼んでいたそうです。
昭和05年(1930年)に新作民謡として作られた関音頭に太郎左狐が取り上げられています。
作詞:野口雨情 作曲:藤井清水
関の孫六 三本杉は ハ ドントショ
水も滴る アリャ玉も散る 志津の三郎も関の鍛冶
ソコズンズン ズイラホイノサッサ
浮世捨てねば迷いの雲に ハ ドントショ
空の月さえ 曇りがち 関の惟然坊は世捨て人
ソコズンズン ズイラホイノサッサ
夏の夜すがら津保川蛍 ハ ドントショ
何をくよくよ 松の蔭 松の夜露で身を濡らす
ソコズンズン ズイラホイノサッサ
太郎左恋しや西所房山で ハ ドントショ
天の川から 水を汲む 秋の夜長におたけ星や
ソコズンズン ズイラホイノサッサ
2016年1月7日
下有知ふれあいのまちづくり推進委員会
委員長 高橋正次(下有知区長会長)