下有知 ( しもうち ) に伝わる昔話に 『 惟然坊(いねんぼう) 』 があります

皆さんは 『 古池や蛙飛びこむ水の音 』 という俳句を知っていますか。

この俳句は、松尾芭蕉という有名な人が作りました。

きっと、どこかで耳にした事があると思います。

この話は、松尾芭蕉の最後の門下 ( 先生について、教えを受ける事 ) となり、自分でも数多くのすぐれた句を作った人、広瀬惟然 (ひろせ いねん) のお話です。

広瀬惟然の本当の名前は、源之丞(げんのじょう) と言いました。また、俳句を作る時には 『 梅花(ばいか) 』 とか 『 鳥落人(ちょうらくにん) 』 とか 『 素牛(そぎゅう) 』 とも言っていました。

ある日、惟然は鳥が飛び立った時に、庭に咲いていた梅の花が散ったのを見て、

「 なんて人の世は、はかないんだろう 」 と思いました。

そして、奥さんも子ども達も家に残したまま、芭蕉の教えを受けようと、旅に出ていきました。

惟然は、芭蕉の最後の旅のお伴をして、芭蕉の臨終の地の大阪に行きました。

そして、その地で病気になった芭蕉の看病につとめ、遺言を書くお手伝いをしました。

そして、芭蕉の死後は、お葬式や十三回忌のお勤めをも果たしました。

いっぽう、家に取り残された奥さんと子ども達は、父の惟然がいなくなってしまったので、とても淋しく、暮らしておりました。

特に、女の子の “とも” は、お父さんに会いたい、会いたいと思っていました。

そこで、あちらこちらお父さんをさがしまわり、やっと見つけることができました。

しかし惟然は、俳句を作りながら、あちこち旅をするのが一生の仕事だと思っているので、 “とも” が、

「 お父さん!お母さんやみんなも待っているから、一緒に家に帰ってよ 」 と言っても、帰ってくれませんでした。

そのかわり、お母さんにあてた手紙に俳句を書いて、 “とも” に持たせて家に帰したのです。

その後も、 “とも” は、父恋しさのあまり、二度、三度と惟然を捜して歩く生活を続けました。

けれども、月日がたつうちに “とも” は、お父さんを捜すのをあきらめて、髪をそって尼さん ( 女のお坊さん ) になりました。

そして、お父さんの顔をかいた絵を飾って毎日、毎日お勤めに励みました。

惟然の男の子供も出家 ( お坊さんになること ) して、 「 玄仲(げんちゅう) 」 と名乗り、竜泰寺のお寺の人となりました。

そんな子ども達の様子を風の便りに聞いた惟然は関に帰り、少しの間、尼になった娘の “とも” と一緒に暮らしました。

しかし、旅の生活をすてきれず、また旅に出かけてしまいました。

そして、芭蕉の教えを守り、俳句を作って暮らす生活に戻りました。

惟然の作る俳句は、とてもひょうきんな感じのもので、作った句を念仏のように唱えながら日本のあちこちを旅したそうです。

そして、姫路で亡くなったとの事です。

☆水鳥や むかふ(う)岸へ つぅいつい

☆うめの花 赤いは(わ)赤いは(わ) 赤い花

☆水さっと 鳥よふは(わ)ふは(わ) ふうは(わ)ふは(わ)

※ この惟然と尼になった娘の “とも” が住んでいた所が、関善光寺の下の弁慶庵です。

※ 惟然の子孫と言われているのが富本町の三河屋酒店さんです。

「 下有知の民話 」 より要約 著者は判っていません

2016年2月3日
下有知ふれあいまちづくり推進委員会
委員長 高橋正次(下有知区長会長)