江戸時代に富士山信仰が爆発的に広がりましたが、旅が困難な時代のために富士講を作り代表者が富士参拝をして土を持ち帰り身近な場所に模倣富士山を築造して参拝出来るように築いたのが富士塚でした。
尾張藩の浪人喜田吉右衛門と弟の林幽閑は、地元の豪農の柴山伊兵衛と相談し、長良川上流の曽代地区から水を引く用水を計画しました。
詳しくは>> 2015/12/17 追補しました。
下有知向山神社
昭和十三年九月三十日に、元の村社である日吉神社 ・ 元の村社である星宮神社 ・ 元の村社である土地神社 ・ 以前に合祀した斎宮神社 ・ 元の村社である大宮神社を合祀したのが銀幣社(ぎんぺいしゃ)向山神社です。
赤谷池と烏帽子岩
赤谷池の周囲約1キロにわたり、財団法人オイスカから提供されたサクラやサツキなどの苗木4種類の合計200本が地元住民や小中学校の児童生徒などおよそ150人によって植樹され、現在ではよく整備された美しい所になりました。
八幡神社 気楽さま
気楽さまから頂いた田を気楽田といって、この田から取れる穀物を笑翁気楽地蔵様 (しょうおうきらくじぞうさま) にお供えして、お祭りをするようになりました。
唐栗神社(唐栗山)ずっとん和尚
その山の東側に黄檗宗(おうばくしゅう)の松洞院(しょうどういん)というお寺がありました。 ある日のこと、和尚さんが裏山に登ってみると狸が一匹じっと和尚さんを眺めています。
唐栗山 狼の聞き分け
唐栗山のふもとに末次郎というお百姓が住んでいました。 秋の取り入れも終わり 「寒い冬が来てもええな。来年までは・・・」 と言いながら、ふと薪小屋を見ると薪が少ししかありません。
西仙坊山
サンショボ山 というところに、 『 太郎左 』 という雄の白ギツネが住んどったそうや。 太郎左はまだ一人もんで若いキツネやったんやと。 それから昔あった関所の南側の山で一ツ山には、『 おたけ 』 という雌の白キツネが住んどったそうや。 おたけも一人もんで、うつくしいキツネやったそうや。
竜泰寺 足跡てんじょう
「 人間の力じゃ動かんな。どうしたらいいんじゃ 」 と、みんなが困りはててワイワイ、ガヤガヤ言っていると、監寺さん(かんずさん:留守番役のお坊さん)の道了様が 「 どれどれ、ひとつ、わしがやってみるかな 」と、言いながら岩に手をかけました。「 ウーム! 」顔を真っ赤にして力みました。 すると岩が、ぐぐっと、動いたのです。
竜泰寺 竜ヶ池
竜は今でも、あの頃のことを思い出すと、自分は本当に強かったんだと思い、 「 なつかしいなあ! あれはいったいどれくらい前の事だったんだろう? 遠い、遠い、昔になってしまった 」 と、寂しそうにつぶやいていました。
竜泰寺(おぶと池) 新助の自慢
おぶと池のほとりに、新助という猟師が住んでおりました。 ある冬の朝、新助が早く起きて池を見ると沢山の鴨が泳いでいました。 さっそく鉄砲を持ち出して、ズドーン!とぶっぱなしました。 すると岩が、ぐぐっと、動いたのです。
南宮神社 東志摩
昔、一人の六部 が、この志摩部落を通りかかりました。 しばらく歩いていると辻に出ました。 「 どっちに行こうかな? よし、右へ曲がってみるか 」と、言ってどんどん進んで行くと、また別の辻に来ました。
竜泰寺(じんねさ洞) 仏どじょう
竜泰寺の裏山の北には、入江のように山の中に入りこんだ田んぼが沢山あります。 この田んぼには、 『 いちべい洞 』 とか 『 さいべえ洞 』 とか人の名前がついています。 これは、この荒地を一生懸命たがやして、田んぼにした人達の名前をとってつけられたものです。 『 じんねさ洞 』 の向いに 『 笠ぶた 』 と呼ばれる所があります。
砂行(すぎょう)1号古墳
関テクノハイランド開発に伴う砂行遺跡に発掘調査(1997年2月~1998年3月)により、弥生時代末から古墳時代の竪穴式住居跡・大溝と横穴式石室がある古墳・奈良時代の火葬墓などが発見されました。